
先日、ご近所に住んでいるおばあちゃんと立ち話をする機会がありました。
そのおばあちゃんはご主人を病気で亡くされて、現在1人暮らしをしています。
ご主人が亡くなられた直後の数ヶ月は当然ですが憔悴していて、かなり精神的にまいっている状態でした。
それはもう見ていられないくらいに。近所に住んでいる私も心配になったくらいです。
おばあちゃんはお仏壇の前で毎日「なんで逝ってしまったの」「そんなに早く逝かなくてもいいじゃない」とご主人に話しかけていたそうです。
何十年も連れ添った夫婦ですから、失った悲しみは計り知れないものがあると思います。
結婚して数年の私には想像もつかないくらいです。
そうした様子を知っているなかで久しぶりにおばあちゃんと再会したのですが、その時のおばあちゃんは少しだけ前向きになっていました。ちょっと安心。
そしておばあちゃんが言うには、ご主人が亡くなられて自分が1人になって気付いたことがいろいろあったそうです。
1つ目は「自分がいかに主人に守られていたかを知ったこと」
2つ目は「自分に関わってくれている人達すべてに感謝しなければならないこと」
収入の面はもちろん、自分はご主人にいろいろな面で守られていると気づいたんだそうです。ご主人がいなくなったことで周りの人達は好き勝手にストレートに物を言ってくるようになったとか。
それはそれは辛かったと思います。
大切な人を失ったボロボロの心に、周りの人達のオブラートに包まない言葉(励ましの言葉も含む)が刺さったと言っていました。
ただ、それでもおばあちゃんはその人のことを「自分のために言葉をかけてくれているんだ」と思うようにして、多少嫌なことを言われても「自分に関わってくれて有難う」と思うようにしたそうです。
自分に関ろうとしてくれる人がいるってことは当たり前じゃなくて、本当は感謝すべきことなのよと。
1人になった寂しさを痛いほど味わったであろうおばあちゃんの言葉は私の心にすごく響きました。
なんて強いんだろう。人生の先輩に教えられた日でした。
「別れ」というのはその人の人生観をも変えてしまうような本当に大きな出来事なんだと思うんです。
少し話は変わりますが、私は数週間という短い間だけ、お母さんでした。
その命は産まれることはなかったけれど、エコーで見る限りは心臓がピコピコしていて確実に生きていました。
自然淘汰でその命は失われてしまって、その後いろいろ考えて思い悩んで思ったことは、「人って思ったよりも簡単に死んじゃうんだな」ってことでした。
今日は元気だったけど、明日交通事故にあうかもしれない。
強盗にあって殺されてしまうかもしれない。
病気で亡くなるかもしれない。
今日会えるのが最後かもしれない。
それからというもの、誰かと会う時には割と高い確率で「もしかしたら会えるのは今日が最後かもしれない」と思うようになりました。
これがいいのか悪いのかはわからないけれど、頭の片隅にぼやーっとそんな考えが浮かぶのです。
勘違いしないでもらいたいのは、これは悪い予言ではなくて「もしかして最後かもしれないから、いつお別れしても大丈夫なように精一杯愛情表現しておこう」っていうこと。
「あの時ああしていれば・・・」とか「こんなひどい事言わなきゃよかった」と思うよりも、精一杯その人に関わるようにしていれば少しは後悔を減らせるんじゃないかと思うんです。
ご近所の人達や病院の患者さん達と接していると、お互いが元気で会えるのは当たり前のことじゃないんだなって、健康がいかに有難いことかと気付かされます。
何も考えずにぼやーっと過ごしているとそういう大事なことは忘れがちになる。
周りと比べて「不幸だ」なんて思ってしまうこともあるけど、自分が持っているものを数えてみれば充分に幸せっていうことに気付けるんだよね( ;∀;)
そんなことを教えられた一日でした。


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